ルワンダ内戦、虐殺の背景

 自分自身がアウシュヴィッツをよく訪れているだけに、ルワンダ虐殺とナチス・ドイツのホロコーストをどうしても重ねて見てしまうのですが、それについての考察もいつか書きたいと思います。

 ルワンダ大虐殺の背景、そのときに何が起こったかを私なりに分かりやすく解説していくので、ぜひ、最後まで読んでいってください。
読むより聞いたほうがいい!という方は、現地で事業を営む 竹田さんの解説動画 をご覧ください。

\このページの下のほうを読んでください/

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ルワンダにおける基礎知識

 ルワンダに住む人々は3つの民族集団【フツ/ツチ/トゥワ】に分けることができる(ただし虐殺以降は民族で分けることはタブー)。
農耕民フツが全体の8割以上を占め、牧畜民ツチは1割程度、狩猟採集民トゥワは1%。ルワンダは19世紀末頃から西欧の植民地支配を受けるが、それまでの王国時代ではそれぞれの民族意識は極めて希薄であった。慣習的に少数派ツチが政治権力を握る立場ではあったが、フツかツチのどちらに属するかは主に貧富の差によって決まっていたという。牛を多数所有することが富と権力の象徴とされ、裕福になったフツがツチを名乗ることもあり、互いが結婚することもふつうであった。

あやか

貧困層みたいな概念はなくて、ツチとフツは、富裕層と中間層みたいな感じだったのかも。

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19世紀末、植民地時代に入って…
1959年、社会革命が勃発
1987年、武力勢力RPFが組織される
1990年10月、ルワンダ内戦の勃発
1994年7月、RPFが国内全土を制圧
ルワンダ内戦での国連の反省点

19世紀末、植民地時代に入って…

ドイツがツチを支配層と定める
ハム仮説の流布=ツチは白人系=高貴
ベルギーによるIDカードの導入

ドイツ政府

少数派ツチを君主および支配層と定めて、ツチにフツをうまく支配してもらおう。我々はツチを管理する。この国を統治するには、それが一番ラクだな。

 もともとフツとツチの民族のちがいは貧富の差でしかなかったため、ドイツがこのような間接支配体制を築いたことで社会的階級と化してしまいました。
やがて、西欧思想の影響でハム仮説(白人至上主義)が流布し、少数派ツチは高貴、多数派フツは野蛮だと言われるように…。鼻の大きさや体型、肌の色がより白人系だと見なされればツチとなり、また牛の所有数が多い豊かな者もツチとなりました。

あやか

1930年代に導入されたIDカードによって、両者が差別的かつ絶対的な方法で明確に分けられてしまう… これが過ちだった!

 ベルギーやドイツは、ツチとフツをあえて対立させることで互いの分裂と抗争を招き、ルワンダ統治の安定をはかっていました。
このようなやり方は【分割統治】と呼ばれ、植民地政策ではよくこの方法が用いられています。

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1959年、社会革命が勃発

長年の不満が爆発し、フツがツチを迫害
反ツチ勢力による民族浄化が始まる
迫害を恐れたツチは近隣諸国へ亡命

フツの人

なんでツチが偉そうに威張ってるんだ?!我々はツチの言いなりにはもうならないぞ。
よし、革命を起こすしかない!

 1959年、ルワンダ王ムタラ3世が急逝し、これが一つの転換機となります。間もなくフツのエリートがツチに対して社会革命を起こした結果、これまでのツチを中心とした権力構造が逆転しました。
1961年にはフツのグレゴワール・カイバンダが大統領として就任し、翌年にベルギーはルワンダの独立を承認。独立後のフツ政権は一党独裁体制を貫き、あらゆる社会面で組織的にツチへの迫害をエスカレートしていきます。迫害を恐れたツチは近隣諸国に避難し、のちにそのツチ系難民から現政権のルワンダ愛国戦線が組織されました。

北部のフツ

おいおい、なんか大統領の出身地あたり(南部)ばかりが優遇されてるじゃないか!
……クーデターを起こすぞ!!

 しかし、フツの大統領であるカイバンダが地元であるルワンダ南部を優遇した政策を行っていたため、1973年、北部のフツであるジュベナール・ハビャリマナがクーデターを起こしました。ハビャリマナ政権はツチとの和解策をとったもののお互いの関係は悪化し、依然として反ツチであることに変わりはありませんでした。こうして、政治権力は北部に集中していきます。

一方、多くのツチ難民が逃れたウガンダも政治的に不安定であり、ツチが迫害を受けていました。そのため、ウガンダのツチ難民が祖国奪還を目指すようになります。

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1987年、武力勢力RPFが組織される

ツチ系難民

我々はこのまま一生、隣国で怯えて暮らすのか?祖国に帰るために武装勢力を結成するぞ!

 隣国ウガンダに逃れていたツチ系難民が中心となって、ポール・カガメ率いるルワンダ愛国戦線(RPF)という武力勢力が組織されます。ハビャリマナ政権に不満を持つフツも RPF に参加し、ウガンダを拠点としてどんどん勢力を強めていきました。
ちなみに、RPF が組織される前、彼らはツチを迫害するウガンダのミルトン・オボテ政権(ツチを迫害していた)をウガンダの反政府勢力とともに打倒し、1986年に軍事的勝利を収めています。こうして、力をつけた RPF はルワンダへ向かい、フツ系の政府軍と対立することになりました。

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1990年10月、ルワンダ内戦の勃発

ツチ RPF

打倒、ハビャリマナ政権!
我ら祖国ルワンダへ向かうぞ。

フツ過激派

こっちだって負けるか!
我々はツチには屈さないぞ。

フツ系の政府軍および市民軍
vs
ルワンダ愛国戦線 (RPF)

 1990年10月、とうとう PRF がウガンダからルワンダ北部へ侵攻し、フツ系政府軍らとの武力衝突が起こりました。3年近くもつづく内戦で疲弊した両者によって、1993年8月には紛争に終止符を打つべく【アルーシャ和平協定】の合意に至りましたが、ここからさらに状況は悪化していきます。フツ政権はこれまでの体制維持のため、ツチを容認しかねない穏健派フツとツチの組織的排除を計画していました。

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そして、事件が起こった

1994年4月5日、フツのハビャリマナ大統領が乗った飛行機が何者かによって追撃ー

フツ過激派

どうせ、お前たち(ツチ)がやったんだろう!殺してやる

※この事件の真相は未だ不明です

 この飛行機追撃事件からさらに内戦は激化…。かねてよりツチの迫害を主張していたフツ過激派がツチへの攻撃を激化させ、ラジオ放送で一般人に対してもツチへの敵対心を煽ったのです。そして間もなく、ルワンダ全土で50万〜100万人の【虐殺/ジェノサイド】が起こりました。
慎重になりすぎた国連は結果的に傍観という立場をとり、もしあのときに国連が適切に対処していたならば、これほどまでの被害にはならなかったでしょう。また、フランスも加害側にあったフツへの軍事的援助を行っており、当時の西欧諸国の不適切な対応については今日まで問われています。

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1994年7月、RPFが国内全土を制圧

新政権RPF

我々の勝利だ!これからは我らがルワンダの政権を握るぞ。

こうして、ツチ系難民であったポール・カガメ率いるルワンダ愛国戦線(RPF)がツチ系の保護を名目にルワンダ全土を征服。1994年7月、国連の介入もあり、ようやくルワンダ内戦が終結しました。
このとき、穏健派フツのパストゥール・ビジムング(もとは反ツチ側であったが後に RPF に加わった)を大統領とし、ポール・カガメを副大統領とした暫定政府が設立されます。ただし、ビジムングは汚職問題もあって批判されており、実際にはカガメが実権を握っていました。2000年3月のビジムング辞任以降、現在までポール・カガメがルワンダの大統領を務めています。

憲法改正により、ポール・カガメ大統領は2034年まで合法的に大統領職にとどまることができると保障されています。

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ルワンダ内戦での国連の反省点

 ルワンダ内戦の国連の対応については多くの批判がなされており、この経験はその後の国際平和維持活動においての教訓となっています。

以下、当時の国連が行うべきだったと考えられる適切な対処を4つのパートに分けてみました。
端的にまとめると、早期警告に基づいた迅速な介入、より強力な平和維持部隊の展開、国際社会への強い呼びかけが求められていたと言えます。

ルワンダ人

こうなってしまう前に、もっと早く気付いてほしかった…。


反省点
早期介入と警告の重視

ルワンダでの暴力的な民族対立は1990年以前から激化していました。国連の平和維持活動や外交的介入が早い段階で強化され、より多くの平和維持軍を派遣して緊張緩和や対話を進めていればジェノサイドにまでは至らなかったかもしれません。国連の現地代表は事態の深刻さを上層部に伝えましたが、本部はその警告を真剣に受け止めませんでした。

反省点
平和維持部隊の権限不足

国連が派遣した平和維持部隊の人員は少なく、装備も不十分でした。権限も非常に制限されており、自衛以外の武器使用は許されておらず、虐殺を防止するための実効的な行動が取れない状態だったのです。より大規模な平和維持部隊を派遣し、武力介入も含めて民間人を保護する権限を強化すべきでした。また、必要な装備や後方支援も強化すべきでした。

反省点
国際社会への迅速な呼びかけ

国連は虐殺が始まった後も、状況を「民族浄化」や「内戦」として表現し、大虐殺と認めることをためらいました。国連内部で「虐殺」をどのように定義するかが議論されていましたが、それゆえに行動が遅れたとも言えます。事態をより重く受け止め、国連加盟国にも積極的な関与を呼びかけるべきでした。植民地時代に強まった民族対立に対して、国際社会が出来ることはあったはずです。

反省点
早期撤退での置き去り状態

虐殺が進行する中で、多くの国連職員や外国人がルワンダから撤退しました。これは、国際社会がルワンダを見捨てたという印象を与え、さらに多くの命が失われる結果を招きました。国連はむしろ平和維持部隊を強化し、過激派の虐殺行為を止めるよう努力すべきだったのは言うまでもありません。また、現地の状況に即した安全策を取りつつ、撤退せずに市民保護を優先するべきでした。

のちに国連内部において、国連や主要国がなぜ迅速に対処できなかったかという検証がなされています。しかし、当時の関係者に対する責任の追及は限定的でした。

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